​やっぱりギターは造るより弾く方がいい
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 ギター工場での昼休みの風景だ。僕が初めてギターを造る体験をさせてもらったのがこの時である。これは長野県松本市の、とっくの昔に倒産して無くなってしまったS楽器という当時30名そこそこの従業員で経営されていたアコースティックギター工場である。OEM(相手先ブランド)での輸出と国内販売で、おそらく月産1500本位は造っていただろうか。

 僕は楽器商社の企画開発部に配属される際、このギター工場で2ヶ月間に渡ってギター造りを研修させていただいた。その間、工場で勤めるI氏のお宅に下宿させていただいて、毎日工場の製造作業を手伝った。2ヶ月でギター造りの工程を一通り覚えるようにといろいろ工夫して、いろんな工程を親切に教えていただいたが、その中でも僕はもっぱら最終工程でナットの弦溝を切る作業を任された。

 研修が1ヶ月位経った頃、I氏の提案で研修期間中に1本ギターを造っておこうと言う事で、毎日の仕事が終わるとI氏が一緒にギターを造り始めてくれた。I氏はローズウッドのオール単版仕様、僕はマホガニーのオール単版仕様で造り始めた。もちろん最初は材料選びから、ワクワクした気分で一番いいと思う木目の材で、トップ、サイド・バック、ネック、駒(ブリッジ)等を選んでいった。

 材料選びまではよかったが、結局出来上がったギターはどうしようもない出来映えだった。どうやら僕は造る事にはまったく向いていない。せっかく贅沢な材を使って造らせてもらったにも係わらず、初めてなのにいろんな細工を欲張りすぎて、修正箇所があちこちにあり、おまけにネックは反ってしまって弾くにも弾けない。まったく愛着も感じぬまま、数年後、押入れの奥から出てきた時にこのギターは何の未練もなく捨ててしまった・・・。

 このギター工場を思い出すと、今でもほろ苦い気分が蘇ってくる。倒産を回避できなかった責任の一端は僕にもあるし、情けなく、申し訳なく、腹立たしくてやり場のない気分である。

 いくつかの印象深い思い出のひとつに、ギター工場で勤めることには大きな危険があるというのを知った事である。この工場では作業で指を無くした人が2名いた。ひとりは僕が研修に寄せていただいた時期から1年以内の頃に中指を落してしまった人で、なんだか本人もまだ30年近く連れ添ってきた自分の指が一本減ってしまったことに慣れていなかったような感じだった。

 もうひとりは僕が一番お世話になったI氏だ。この人は若い頃ロックバンドでギターを弾いていたらしい。もちろんこの工場に入ったのもギターが好きだったからだ。この工場の中では彼が唯一のギターの弾き手だった。

 その彼も数年前に左手の人差し指の先を、爪が無くなる程度のところで失っていた。エレキギター出身の彼は、僕の弾くフィンガーピッキングに大変興味を持ってくれて、少しの間教えてあげたけれど、弾きにくそうな指の動きは痛々しかった。これらの事故はナットを埋め込む溝を掘る機械の回転歯が原因だった。一度だけその作業も勉強ということでやらせてもらったが、確かに怖い作業だ。1日中この作業をやっていたら、高回転で見えなくなってしまっている歯についうっかり指を近づけてしまうミスを犯してしまうことは、容易に想像がつく。

 僕が研修を終えて工場を離れて数年後、この人たちが働いていたこの工場が倒産した。この工場では当時、国内産のアコースティックギターの最低価格2万円から5万円位までのギターを造っていた。このクラスの購入者は初心者が多く本数も一番多く売れる価格帯であるが、当時国内ではMが圧倒的人気であった。

 それに対抗するため、S楽器ではMの2万5千円位のスペックを2万円で造って対抗した。当然、同じ日本国内で造る以上、利益を蝕んではじめてできる策だ。しかし、それだけやってもMの方が売れる。ギターはイメージで買われてゆく場合が多い。自分で選ぶ目を持たない初心者ならなおさらその傾向は強い。

 韓国や台湾のギターメーカーが、その下の1万円台中心からそろそろ2万円台の価格帯を担い始めていたのもその頃だった。アコースティックギターを量産する場合、製造工場にはこういう“法則”があてはまる。それは、その工場の製造する最低価格の3倍までがその工場の製造できる範囲だという事。つまり、最低価格2万円の工場では6万円位までが市場で通用する限界であるということ。最低が5万円なら上は15万円程度である。これはある有名ブランドの工場の専務さんから聞いた話だが、確かにどこの工場もほぼこの通り当てはまる。同じ工場内で同じ工程で造る以上、いくら材料で値を上げようとしても技術面での限界がある。そんな中、万策尽きてS楽器が市場から退出していった。

 ここでの研修期間中、休日のたびに社長をはじめ大勢の従業員の方のお宅へお邪魔させていただいた。そこで気がついた事だが、昔は名古屋から岐阜、そして今や長野県が国内のギター(アコースティックもエレキも)の主要生産地であるが、ギター工場の従業員の人たちの家は農業に従事している方が多く、僕などからすると大変大きな土地の屋敷に住んでいる。

 意外にも工場の社長さんはその仕事のみが本業でいるせいか、質素な家に住んでいたのだ。一般の従業員の大半は農業の傍ら定期収入の確保のためにギター工場に働き口を求めた人達だ。たまたま就職先がギターを造る工場だったというだけの人達である。同じ製造業とはいえ車や電化製品と違って、ギターの場合は機械加工でできない部分が多いところへもってきて、その製品が完成した際、どういった仕上がりが購入者にとって一番いい状態なのかは、造れるけれど弾けない人では解からない・・・。

 自分の製造する製品がどのように購入者に満足を与えているか? ギターを弾かない彼らには絶対理解できない。これがきっと車や電化製品だったら、自分も使う立場で評価もできただろうが。これがギターという製品の宿命である。

 この頃、現地の楽器店の経営者から聞いたおもしろい話がある。市内でギターを弾きたいと思うようになった年頃の少年達は、ギターを楽器店で買わずに、必ずクラスの誰かの身内でギター工場で勤めている人がいるので、その人に頼んで安く分けてもらうそうだ。そんな特殊な環境によって、市内の楽器店ではギターがあまり売れないそうである。生産地では楽器店にとって、そんな笑えない話もある。

 ギター工場に限らずどこでもそうだが、製造業では毎日従業員を遊ばせないために製品を造り続けなければならない。できた製品は市場で売れ続けなければそれが循環してゆかない。一度市場に出て行ったギターでも、キズがあっただの、ネックが反っただのと言っては送り付けで返品されてくることは当時は日常茶飯であった。

 ギター工場も存続のためにはやれることならなんでもやった。ある工場ではギターの受注が確保できないから、その分を埋めるため、蛍光灯の傘を造っていた。カスタネットを造っていたところもある。またあるところでは、仏壇を造っている工場もあった。木工加工と塗装を必要とする製品ならなんでもトライしてみようと。

 80年代中頃からギター製作を教える学校が国内にも登場し始めた。ギターの将来のためにこういった活動は確かに必要だ。しかし、高い月謝を払って学校を出て、大半の卒業生が就職してゆくギター工場というところでは、大なれ小なれこういった現実と直面し、さらに地元から就職した大半の農業兼業の従業員のギターに対する“情熱”の程度を目の当たりにして愕然とすることになる。

 このS楽器にいた人で、途中で新しくできたほかの工場へ転職した人がいた。そのFさんを訪ねて一度、その工場を見せてもらった事がある。当時数名の職人だけで立ち上げられたその工場で造られるHというブランドのギターは、当時の国内では抜きん出て優れた完成度を誇っていた。

 それもそのはず、FさんはS楽器の以前にも別のギター工場で働いていたのだが、その頃の仲間に呼ばれて集まったこの人達は全員がひとりで1本のギターを完成させられる技術を持った精鋭達だった。その彼らがそれぞれ得意な作業を分担してHを組み立てていた。いい物はこのような稀な環境が揃わないとできないのだ。ギターを造る側の立場から見たFさんは、雲の彼方のようなレベルのギター造りを始めた。 

 さりとてこのHというギター、いまでも根強いファンがいるが、プレーヤーとしての僕から見れば、残酷ではあるが、ちょっとよくできたコピーものにしかすぎない・・・。

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