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​静かな騒動?
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 1982年3月、25歳の若さでこの世を去った伝説のギタリストRandy Rhoads。彼が在籍した事でも知られる、QUIET RIOT。ランディがいた当時は、結局バンド自体も日の目を見ず、彼自身の演奏もQUIET RIOT時代にはたいして注目もされなかった。バンドは2枚のアルバムを出して解散し、ランディはその後OZZY OSBOURNE BANDに移籍して頭角を現し、世界的ギタリストの階段を上り始めた。一方では彼がこの世を去った後、QUIET RIOTもまた全米1位を獲得し、一度は頂点を極めメタル史にその名を刻んだ。  

 

 この写真は1987年、当時僕が担当(と言っても、アコースティックと掛け持ち)していた、エレキギターJ/Cの日本縦断キャンペーンの打ち上げの一幕である。ボーカルのPAUL SHORTINO(元ROUGH CUTT)、ドラムでリーダーのFRANKIE BANARI。キーボードのJIMMY WALDO。ベースのSEAN McNAB達と二次会でディスコ(VIPルーム)にやって来た。 

 

 この当時J氏と言えば、エレキギター界では時の人であった。それまで、ストラト(F社)、レスポール(G社)の2大メーカーに代表されたエレキギター界に、突然、爆発的な超人気ブランドとして、J/Cギターが浮上した。その2つのブランドを生み出したのが、J氏であり、そのブランドを世界的に有名にした立役者がRandy Rhoadsである。

 アメリカで超人気のこのギター、日本での販売権を取ったのが当時僕の勤めていた会社だった。それを勢いよく販売するための、キャンペーンもスケールが大きかった。なにしろ、現役のロックバンドのメンバー全員を全国縦断キャンペーンのためにアメリカから招聘し、交通費、宿泊費、滞在期間中の食費、仕事のギャラ、その他もろもろ全部ひっくるめて丸抱えで面倒を見たのだ。

 この仕事はJ氏の提案で実現したのだが、話が急だったこと、したがって予算が無かった事、これらがプレッシャーとしてのしかかり、嵐のような激しい数日間を、ハラハラしながら彼らとともに過ごすこととなった。

 場所は日本国内とはいえ、ロックバンドのメンバー(しかも外国人)全員と数日間を共にするということは、想像を絶するストレスと、緊張(スリル)の連続である。連中の我儘さ、気ままさは尋常ではない。タクシーの手配や、食事場所の設定など、彼らの行動を予算内に制御するのは至難の業である。もっとも、こんな連中を連れて国内を縦断することなど初めてなのだ、いったいいくら掛かるかを見積もったにしてもあてにはならない。

 

 まずこの仕事を実行することが決まって、僕が急遽行動したことは、司会者の調達である。これから連中を連れて全国の楽器店を回って、J/Cギターの紹介をして回るのだ。当然、彼らの演奏を餌にして人々を集めるにしても、当日のイベントそのものをまとめ上げるためには司会が必要になる。放送局の知人からの紹介で人物を選んだが、やはり司会者も人の子、今回の仕事に身の危険を感じたのか、母親が会社に仕事の内容を確認に来た。若い独身娘が外人のロックバンドの連中と数日間、国内のホテルを転々と移動して回るのだ。彼女の母親の心配も無理は無い。僕も正直、実際にどんな展開が待ち受けているのか皆目見当も付かなかったけれど、とにかくお母さんには紋切り型の対応でお引取り願った。

  連中とは一緒に歩くだけで疲れる・・。ただでさえ、外人と言うのは育った文化が違う、しかも、偏見で言う訳ではないが、彼らはアメリカのロックバンドの連中である。たとえば町を歩くだけでも誰だか判っていないのに若い娘たちがあとを付いてくる。さすがにこの頃はまだスマホが普及していたわけではないが、髪の長い、いかにもミュージシャン風の外人達が、白昼、数人で町を歩けば、誰だって何かしらの有名人だと思って、写真やサインをねだろうとする。それをまた彼らは面白がって相手する。そんなことは日常茶飯で、そんな彼らから取り巻きを切り離して、彼らを目的地に連れて行くだけでも一汗かいてしまう。当然ホテルへは全員偽名で登録してあった。これは有名アーティストが泊まる時はみんなそうだ。本名で泊まっていたりしたらファンが訪ねて来ても、ホテルはみんな取り次がなくてはならなくなる。 

 この仕事中、最大の事件は名古屋で起こった。彼らと日本を縦断し始めて数日して、気心も知れ、しんどいながらも扱いが判ってきて要領を得たつもりでいたとある日曜日、僕も地元名古屋へ戻って安心してその日の目的地へ向かって彼らを乗せて車を走らせていた。そうしたら、セントラルパークの近くで信号待ちをしているとき、どこかからバンド演奏の音が聞こえてきた。明らかに野外でLIVEをやっている音だ。日本へ来てもコンサートが目的ではない来日で、毎日ろくに楽器も触っていなかった連中のフラストレーションも、この頃になると相当溜まっていたのは確かだった。誰かが、車を降りて音のする方向へ走り始めた。すると他のメンバーもみんなそれに付いて行ってしまった。​ 

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 ​ 僕も仕方なしに車を任せて付いていくと、アマチュアバンドのコンサートが行われていた。彼らは「俺達にも一曲やらせろ」というのだ。僕は内心面白い展開だと思った。広い場所で彼らの生演奏も聴いてみたい。そこで主催者に掛け合って見ることにした。本当は目的地への時間の約束があったのだが、そんなもの彼らが日本へ来て以来、守れたためしがない。ちょっとくらい遅れて着いたほうが、会場で待っている連中の盛り上がりも増す・・・くらいに軽く考えていた。 

 

 今となっては、それがどういった趣旨のコンサートだったかは覚えていない。コンテストだったのか、ただのコンサートだったのか?なにしろアマチュアバンドが多数出る形式になっていたようで、主催者は進行時間を非常に気にしていた。そうこうしているうちに、僕が主催者に掛け合っている最中に結論も出ないまま、彼らはステージに登って(乱入して)しまった。客席は晴れた日曜日ののんびりしたムードが一変した。その時出ていたアマチュアバンドの連中は、彼らの風体と貫禄に気押されして、めいめいの持っていた楽器を彼らに明け渡してしまった。

 僕と話していた主催者はそれを見て怒りだした。しかしもうステージへ上がってしまっていて、しかも元の楽器の持ち主達をステージの袖に追いやって、彼らはチューニングをし始めている・・・。それまでアマチュアバンドの下手な演奏に飽きていた観客達も「何か始まりそうだ」と注目し始めた。主催者は観念して「一曲だけですよ」と言った。「ありがとうございます!」と言って、僕は彼らに一曲だけだと伝えた。そうして無理やりの形で彼らの演奏が始まった。ボーカルのポールの大きな叫びとともに観客のどよめきが起こり、会場の雰囲気は一変した。それまで公園を散歩していたような連中も客席に集まり始めた。

 

 ・・・彼らの演奏はさすがだった。それまでの数日間、さんざん好き勝手に僕達を振り回してくれた気ままな飲んだくれ連中が、この時だけは輝いた。 

 まず、ドラムの音量がそれまで聴こえていたアマチュアのそれの倍以上に聞こえた。音が抜けるとはこの事だ。同じ楽器で、同じセッティングで行われているだけにこの違いは興味深い。瞬く間に人が大勢吸い寄せられ、観客席はそれまでの倍くらいの人で埋まった。僕も彼らのかっこいい姿を見て、これまでの彼らとの数日間の疲れが吹っ飛んだ気がした。

 

 ところが喜びもつかの間。彼らは1曲目が終わったら、すぐさま2曲目を演奏し始めた。もうこうなったら止まらない。事前に曲順を相談していたわけでもなかろうに、当然のごとく2曲目に入ってしまった。主催者は当然ながらカンカンである。無理やり1曲だけならと納得してくれたところだったのに。これでは向こうも黙っているわけにはゆかない。そんな時、やはり舞台の隅で状況を困った顔で見ていたこのコンサートの司会者が、当方の連れていた司会者の姿を見つけて「あら、○△チャン」と声をかけた。

 当方は、一応地元では名の通った某放送局からの紹介で調達した司会者である。それとタメ口をきいてくるこの娘も、それなりの司会者なのだ。その時判ったが、このコンサートはY社の主催であった。なるほど、結構規模の大きいコンサートなのだ。QUIET RIOTの連中はその後、何曲弾いたかは覚えていない。彼らは決して満足せず、さりとて主催者を十二分に怒らせるだけの時間を費やして、演奏を切り上げた。・・・後日、彼らが日本を後にしてから、Y社に菓子折りを持って謝罪に行ってきたのはここに記すまでもない。

 結局、彼らと過ごした期間中、仕事のことはほとんど記憶に残っていない。それはつまり、仕事はそこそこに無事だったはずだ。それよりもプライベートな部分での様々なエピソードがやはり強烈に思い出として残っている。彼らをうまく動かすには、年長者でリーダーのFRANKIE BANARIを手なずけるのが一番で、彼は日本刀のコレクターなので、仕事前後に二人であちこちの骨董屋を回った。彼は数本の刀を買い、僕が剣道の有段者という事を知ると竹刀も買うと言い出して、早朝からホテルの庭で構え方と振り方のレッスンもしてやった。

 竹刀を持つ場合、「左手は常に体の中心を離れず、振り下ろす際のパワーを受け持ち、右手は竹刀を目標に向けてコントロールする。」この教えを彼は「ドラムと同じだ!」と言って、ますます日本刀が好きになったようで、僕のことを「先生」と呼ぶようになった。

 以前、海外で日本を紹介する記事の中で、「ロックコンサートですら、定刻どおりに始まる行儀正しい国」と紹介してあったのを見て、表現の面白さに感心した事がある。この連中、QUIET RIOTと過ごしてみて、この記事の事を思い出した。

 それから数年後、もう一度みんなと名古屋で食事したことがある。あの時はコンサートで来日していた。彼らから誘ってきてくれたのだった。そのグループ名の通りの連中だった。

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