Donighdekeer
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僕が始めて会った海外の有名ミュージシャンはこの人。1978年4月のことである。
この頃、僕たちは大阪・名古屋・東京でそれぞれが主催していたギター教室の生徒さんたちを連れて、年に1度合歓の郷で合同合宿を行っていた。
海外のいろんな有名アーティストと会ってきたけれど、確かにこの人の大物ぶりは凄かった。
海外情報がほとんど届かなかった時代。ジョン・レンボーン本人との直接の対面は、レコードコピーだけでは掴み切れなかった多くの気づきがあった。
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フィンガーピッキング普及の立役者ステファン・グロスマン。正直、彼の演奏は好みではないけれど、会ってひとつだけ感謝していることがある。
その昔、楽器商社に就職した僕は名古屋へ引っ越したと同時に、長野県のギター工場へと研修に出向いた。
ギターを弾ける人が大勢いる国では量産ギターの製造は難しくなってゆく。弾く人にとっては当たり前の事が解らない人々が造るギターとは。
舶来ギターはマーチン、ギブソン、ギルドくらいしか日本の楽器店に並んでいなかった時代。僕は日本ではじめてラルビーギターの輸入・販売を手掛けることとなった。しかも馴染みのないカナダ製、果たして日本で成功するだろうか。
ナイロンギターでフュージョン界に登場したアールクルー。僕は彼の弾くピアノも生で聴いたし、チェット・アトキンススタイルのソロ演奏も楽屋で聴かせてもらったことがある。
岸部眞明、押尾コータロー、今やフィンガースタイルのギタリストとして国内トップクラスの知名度を誇る彼らが、まだ世に登場する以前のこの頃、彼らに勝るとも劣らない才能を僕は目撃した!
当時、ギターソロで気に入った曲はどん欲に手当たり次第コピーしていた僕だったが、この人の音楽領域に踏み込むのは躊躇してしまった。
「エレアコ」、この言葉は僕が生み出した。僕が作った数々のカタログと雑誌宣伝を通して、その言葉は少しづつ広がっていった。それまで世になかった新しいジャンルのギターの普及を担ったこの仕事は、僕の楽器業界における一番誇れる足跡である。
当時ギターといえばエレキギターが主流の時代。一方「生(なま)ギター」と呼ばれていたアコースティックギターにピックアップを付けてみると、・・・世間の反応は厳しかった。
アコースティックギターにピックアップが付いたメリットとは・・・。ネットなどがない時代、僕は一人でも多くの人に理解を拡げようといろんな音楽雑誌に記事を書いてその効能を説いた。
ビルトイン型、セパレート型、アコギにピックアップを仕込むにはそれぞれ一長一短ある。そんな悩ましいエレアコ選びにイサトさんがアドバイス。
後編、いよいよデモ演奏の収録。こんな形で憧れの中川イサト師匠との共演を映像に残せる機会が与えられた僕は、幸運で恵まれた弟子である。
来日して最初の宿泊先東京のホテル、京都のコンサート会場と連続で空振りながら、大阪城ホールの楽屋でようやく実現した3分の面会。
クラシックギターに心得のある人なら間違いなくギターメーカー「M」のことを野球チームに例えたら「G」だと言うだろう。ただ、この日ばかりはその事を全員に理解させることは困難だった。
ソウルオリオンピックを無事にやり遂げた韓国は、もやは日本に追いつくのは時間の問題というムードで街中がエネルギーに満ち溢れていた。
韓国で初めて開催された楽器フェア。そこで現地アンプメーカーの社長にデモ演奏を頼まれ、韓国のNo1ロックギタリストと共演することとなった。
ジャクソン・ブラウンとの対面は、あまりいい思い出として振り返れない。それはこちら側が一方的に問題を抱えていたからなのだけれど。
向かって左の男女がJギターの生みの親J氏とその夫人。あとの外人はQUIET RIOTのメンバーたちである。これは打ち上げの後の記念写真。僕も若かったけれど、連中との仕事はホントに疲れた。
リーリトナーと会ったのは、東京タワー近くのホテルのロビーだった。
ブルーグラスとジャズを融合させて彼が独自に作り上げた音楽「DAWG MUSIC」。僕はブルーグラスもジャズもやらないけれど、この人の音楽には惹かれてしまう。
こんな渋いアーティストも日本に来て公演していたことがある。当時、コアなファンはきっと喜んだに違いないが。
ホワイトファルコン、カントリージェントルマン、これらグレッチを代表するギターたちは、車で例えるならキャデラックのようなアメリカらしいギターである。
今回の話題はギターには全く関係なのだけれど、こればっかりはカズも、中田も、小野も触ったことはないだろう。