top of page
​中川イサト/ボク/岡崎倫典
1613896270197-284c7948-332f-4d55-8ed2-4c60f55033b7.jpg

 これはイサトさん(左)僕(中央)倫典さん(右)の3人。 時は1987年、まだ肌寒い4月の合歓の郷での一場面である。この頃イサトさんは大阪で、倫典さんは東京で、そして僕は名古屋で、それぞれのGUITAR SHCOOLを主催していた。イサトさんと僕の教室はこれより数年前から年1回合同合宿をしていたのだが、この年からかその前の年からか? 東京から倫典教室が合流した。

 ここでは各教室からの参加生徒全員が日頃の練習の成果を1泊2日かけて全部さらけ出すのだ。当然、先生の模範演奏もある。前の晩に僕達“先生”3名が個々に演奏し、そのあとは部屋を替えて大宴会。元気な奴等は朝までギターを片手に飲み明かしている。そしてあくる日、朝食を終えると参加生徒全員の発表会となる。(演奏順はいつもくじ引き)前の晩はアルコールも手伝って、みんな頼みもしないのにギターをいじくりだすのだが、この日はみんなおとなしくなる。なにしろ、シラフな上に中川イサトと岡崎倫典が揃って目の前で見てるのだ。

 昼下がりまでかかって全員が弾き終わると、いよいよ大阪へ帰る組、東京へ帰る組、名古屋へ帰る組と親しくなった者同士、別れの挨拶が方々で始まる・・・。そんな寂しいムードの漂う中、最後の締めかなんかでみんなから求められてもう一度“先生”達が、今度は同時に登場してセッションと相成った時のショットがこれである。 

 

 この写真を久しぶりに見て気付いたが、どうやら僕は誰かのギターを借りて弾いているようだ。(僕はどこかへ自分のギターを持って行ったり、持って行っててもケースから出すのを面倒に思う場面がよくある。この時も急だったので、誰か寸前に弾き終えた人に借りたのだろう・・・。)

 倫典さんはちゃんと自分のサンタクルーズを弾いている。多分2~3曲は弾いたはずだが、どんな曲をやったのかはもう思い出せない。きっと生徒さん達の中で録音した人が何名かいるだろうけれど・・・。この僕達の教室の生徒さん達の中にも、その後いろんな形でギターに関わって各方面で活躍している人達がいる。教室をやる人、出版関係に進んだ人、ピックアップシステムを開発して生業にした人、ギターを作り始めた人、メジャーデビューした人、それほど食えなくてもライヴ活動をしている者は数多い。多くの生徒さん達がそれぞれ今も深くギターと関わっている。

​ 合歓の郷での合宿は、大阪のイサト教室から始まった。今のようにフィンガースタイルのギター音楽が日本国内で広く知れ渡るようになり、頻繁に音楽雑誌で取り上げられるようになったきっかけと土台は、ここに集まったみんなで築き上げたと言っても異論のある者は居ないだろう。当時も、今も、その中心にイサトさんがいる・・・。その後イサトさんは、その火種をアジア方面にまで広めてしまったようだ。

 この写真の頃は倫典さんもソロ活動は始めてはいなかった。鈴木康弘(元オフコース)や、杉田二郎、谷山浩子といったアーティストのサポートの活動が中心の頃だったと記憶している。イサトさんと出会い、インストに魅せられ、自らもギター教室を始め、インストのオリジナル曲を作り始めてからそう時間はたっていなかった頃だ。この頃イサトさんは、名古屋へライブに来ると毎回僕の家に泊まりに来た。ソロ活動を始めたばかりの倫典さんも何度か泊まりに来た。泊まるといえば、イサトさんは一人以外の時に、たまに有山(淳司)さんなんかも一緒に来て泊まった。有山さんはいつも寝る前に牛乳を飲む習慣があるらしい。毎回、夜中に僕の家の冷蔵庫を勝手に開けて牛乳を飲みだす・・・。 

 話がそれたが、倫典さんはその点さすが東京で育ったミュージシャン(出身は広島だが)で品がいい。それはソロ演奏の曲想にも顕れているように思う。

 この写真よりずっと以前、イサト教室が大阪の梅田ナカイ楽器で始まった当時、フィンガースタイルの音楽と言うと、STEFAN GROSSMANが主催するKICKING MULE RECORDから出ていた一連のTAB付きのレコードくらいしか聴くものはろくに無かった。(類似の話は、エッセイ「STEFAN GROSSMAN」を参照)

 音楽を提供してくれるアーティストも限られていたし、コピーの対象となる曲の範囲は限られていた。そもそも、その手のレコードも心斎橋のサカネ楽器でしか扱ってなかったのだ。当時イサトさんはよく、「サカネ楽器にこんなんあったで」と、初めて聴く名前のアーティストを紹介してくれた。イサトさんの家の棚には膨大な数の輸入レコードがあった。その中には多くのハズレと、一握りの宝物の様なアーティストのフィンガースタイルの音楽があったのだ。当時、日本で一番フィンガースタイルの音楽情報が詰まっていた場所は間違いなくあの棚にあった。

 イサトさんはその膨大な蓄積の中から、いろんなアーティストの存在を教えてくれ、僕達はめいめい自分の好みに合うアーティストの音楽に巡り会っていった。ある者はSTEFAN GROSSMAN。ある者はJOHN RENBOURN。ある者は、RICHARD RUSKIN。またある者はBRUCE COCKBURNと言った具合に、めいめいが個々に気に入ったアーティストの作品を競ってコピーし、その成果をここ合歓で披露し合った。

 

 この冒頭の写真の頃はちょうど、MICHEL HEDGESのコピーが全盛を迎えていた頃だった。ここでは、日本の漫画界がその黎明期に手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄と言った人達が“ときわ荘”というアパートの同じ屋根の下で暮らしていたという話に似たような、刺激的な集まりが形成されていた。

 イサトさんの存在と行動とによって、多くの人と人が結びついて、ここまでアコースティックギターのフィンガープレイスタイルが国内に広がった。イサトさんはよくソロ活動のスタートを切ったばかりのアーティストを自分のファンに紹介してくれる。それは今、日本国内で活動しているフィンガースタイルのアーティストのほとんどに当てはまるだろう。前述の通り多くのレコードライブラリーの中から、海外の優れたアーティスト達の情報を僕達に紹介してくれたイサトさんは、後にその本人達を日本に呼んで僕達が目の前で彼らの演奏に直接触れる機会を与えてくれた。

 これらの地道にコツコツと積み重ねられたイサトさんの一貫した行動には頭が下がる。イサトさんのアーティストとしての本来の姿を語るなら、“シンガーソングライター”としての側面にも触れないわけにはゆかないだろう。しかしここではそれはさておき、フィンガーピッカーとしてのイサトさんの辿った足跡から、日本のあちこちでフィンガースタイルの芽が長い年月をかけて育ってきたという軌跡の一端を紹介したかった。

 その影響は、プレイヤーやオーディエンスだけでなく、ギターメーカーや出版社にも広く及んでいる。冒頭の写真が撮られたこの頃は、今にして思うと大阪在住時代のイサトさん周辺での、範囲は狭いがホットな集団のエネルギーが、東京、名古屋へ広がり、そろそろ全国展開に飛び火するレベルに達するまで臨界域に近付いていた頃だったのだ。

 

 最後に知らない人のために断っておくが、この3人の中でが僕が最年少である。だから、文中の二人には“さん”が付くのだ。

bottom of page