名古屋駅でRY COODERと
僕が始めて会った海外の有名ミュージシャンとの記念すべき1枚がこれ。1978年4月のことである。彼とはこれまで2回会ったことがある。その間10年くらいだろうか・・・。この写真の場所は名古屋駅西側の地下街で、カメラの横には彼の奥さんが立って見ていた。僕は昼間、某所でギターを弾いた帰りにここで落ち合って、彼が東京に帰る前に一緒に味噌煮込みを食べることになっていた。ところが彼ら夫妻はお腹はへっていないとのことで、食事はやめて新幹線に乗るまでの間、彼が今回の来日コンサートで使っていたギターを見せてもらったりして過ごした。
初来日のこの時は、彼の友人であるギターメーカーの社長を頼って、木曽の山奥で奥さんと共にOFFを過ごした。この日は木曽から東京へ帰るために名古屋まで戻ってきたわけだ。彼の奥さんはこの日、木曽で檜の風呂桶やたくさんの大工道具を買い込んで、本国へ送る手配をして来たらしい。何でも、奥さんに言わせるとアメリカの大工道具は押して使うものが多いのだが、日本の道具は引いて使うものが多くて、とても使いやすいのだそうだ。
さて、ギターの方の話だが、この時のコンサートが初来日でソロでコンサートを行った。(2回目はDAVID LINDLEYと一緒に来た)それにしてもこの人はギターが上手い。それなのに彼の活動ぶりからは、あんまり本人はギターの演奏にのみ拘っていないふしがある。ギターを通しては一般的にスライドギターの名手などとよく紹介されるが、フィンガーピッキングも滅茶苦茶に上手い。この時の対面の前に、既に数日前のコンサートで初めて間近で彼の演奏を聴いたが、オープニングの“DIDDY WAH DIDDY”を聴いただけでぶっ飛んだ。
そして、さらにこの日初めて当人と会ってみたら、背も高いし、手もでかい。これは一生かなわないと思った始めてのギタリストである。生意気なことを言わせてもらうと、この約1ヶ月後に会ったSTEFAN GROSSMANやJOHN RENBOURNらは、会った当時は僕より上手かったのは認めるが、彼らと僕とは歳も違う。その当時の僕のペースで弾き続けたら、きっと追いつけると感じていた。しかし、このRY COODERは別格である。正直、この人の歌は真似たいと思わないが、ギターはとにかく底なしに上手い。この人に追いつくには、生まれ直さないと無理だと当時思った。それなのにこの人は別にギターの演奏を前面に出して活動している風ではないのである。その後の活動でも沖縄音楽に近寄ってみたり、ハワイアンに近づいたり、はたまた、映画音楽(CROSS ROADSは面白かったなぁ)に進出したりして、そのフィールドを広げていった。
トップ画面の写真ではあまり目立たないかも知れないが、この来日の時、彼の奥さんはお腹が大きかった。この時の来日の間、もしかして僕と会えない可能性もあったので、ギターメーカーのH社長は彼に頼んでプロのカメラマンが撮ったこの写真に、僕宛にサインをもらっておいてくれたのだった。
結果的には運良く無事に直接会うことが出来たのだが、名古屋駅での新幹線乗り替え途中という忙しい対面だった。その後、多分10年後位に彼が何度目かの来日コンサートに来た時、楽屋で再会した。その時ちょっと太目のおぼこい少年がパーカッションでステージに登場した。それがこの初来日の時奥さんのお腹にいた息子だったのだ。最近、映画“BUENA VISTA SOCIAL CLUB”を観て、冒頭のシーンでRYをサードカーに乗せてバイクを走らせているのが、この時のお腹の中にいた息子のその後の姿と気付いた時には、僕もずいぶん年食ったとしみじみ感じさせられてしまった・・・。
さて、このとき新幹線のホームで見せてもらったRYのギターの話だが、そのギターはアメリカで銃のグリップの部分の象牙細工を作っている職人さんがいて、その人に作ってもらったという手工ギターであった。このギターの中にはSONY製のピンマイクが取り付けられていた。アウトプットジャックは5ピンのキャノンジャックで、なんだかこれを見せられた時には、アメリカの楽器開発の奥の深さを垣間見た気がした。
後に僕が名付けることになる“エレ・アコ”なるものが、世の中に登場していなかった時代である。このギターのボディトップは大きなカーブのアーチトップで、我々は“陣笠スタイル”と名付けて呼んでいたのだが、中に仕掛けたマイクがハウらないように工夫されており、まさに当時、世界最高水準の手造りのエレアコであった。
この写真の僕の足元にある茶色のハードケースの中身がそれである。
この写真から何年かあと、日本ではYAMAHA、MORRIS、TAKAMINE、TAMA、ARIA、K・YAIRIといったギターメーカーの間で、熾烈なエレアコ開発競争が始まる。しかし、その後の業界地図を見れば自ずと結果は明らかである。その結果をもたらした要因は、この頃RY COODERという世界有数のギタープレイヤーが、サウンド面でのアドバイスやさまざまな試みを、親身になって引き受けてくれたことによる、ハード面での高いクオリティの実現。そして、マーケティング面において僕が決めた“エレクトリック・アコースティックギター”というネーミングと、その後のモデル設定時のボディスタイルやスペックの構築が、他メーカとの優劣を決定付けたからだと思っている。
エレクトリックアコースティックギターの黎明期、当時ライバルのあるメーカーでは“エレクトリックフォークギター”と自社のマイク内臓ギターを名付けていた。もう一社は“アコースティックエレクトリックギター”と逆さまに名付けていた。僕はどう考えても、アンプリファイズしたとはいえアコースティックギターなんだから、絶対このネーミングが自然だと考えた。RYが初めて来日したこの頃はそんな時代だった。