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​エレアコ誕生物語(その1)
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 この写真はエレアコが登場して間もない頃、楽器店の主催するエレアコの説明会+デモ演(当時はギタークリニックと称していた)の一場面。多分京都の楽器店が用意した会場だったと思う。

 僕は電気に詳しいわけではない。ギターを造れるわけでもない。しかしある時期、日本国中で一番、アコースティックギターに関する知識と情報をバランス良く持っていた立場にあったと自負している。だからこそ、世界的に成功を遂げたエレアコ普及の一端を担うことが出来たと思っている。

 

 僕に言わせればこのバランスがミソである。例えばハード面の知識では、構造を知っていること、材料を知っていること、コストを知っていること、その製造元の技量を見極められること、そして、その時点での世界的な傾向や競合ブランドとの優劣を正確に把握していることなどである。ソフト面で言うと、音楽を知っていること、音を聞き分けられる耳を持っていること、そして自らが弾けてプレイアビリティが判断できること等である。

 これらの総合的な知識や情報・経験を一定以上の水準で持ったバランスの上に感性が加わって、考案されるギターという製品の成否が決まると思っている。

 

 僕が初めて会った時のT楽器のH社長は、すでに当時で60歳を過ぎていた。背は低くて、恰幅が良くて、ちょっと普通の日本人がかけない様な派手な眼鏡と派手な指輪が印象的な、ちょっと風変わりな人物だった。初対面の日、その工場のギターを弾いて見せたが、その時に当時非常に珍しいフィンガースタイルで弾いたことに甚く感心された。工場の幹部たちに向かって「アメリカではみんなこういう風にギターを弾く。日本でこんな風に弾く人を始めてみた」と言って誉めてくれた。ここから、このH社長との長い付き合いが始まったのだ。

 とは言っても、その頃T楽器は日本国内向けにはギターを販売していなかった。なぜかというと、日本の販売会社(問屋)との取引に懲りたからである。1970年代初めのフォークブーム全盛の頃はT楽器も国内で販売していたが、販売会社の力不足と、ユーザー達の残酷なまでに盲目的な有名ブランド信仰のせいであまり売れなかった。

 販売会社は売れないことをメーカーのせいにし、品質に文句を付けては返品を繰り返した。製造メーカーにとって一度造って世に出した製品が決定的な欠陥があるわけでもないのに市場から戻ってくるのは辛い。特に木工製品の場合、日焼けしていたり、あちらこちらに打痕があったりすると、もう捨てるしかない。ほとんど労働集約的に造られたギターという製品は、部品を取り替えてまた出荷というわけにはゆかない。おまけに返品は運賃も着払いで戻ってくるのだ。

 こんな具合に売れないことをメーカーのせいにされて、勝手気ままに返品してくる日本の販売会社にH社長は心底失望していた。こんな取引に頼っていたら会社が存続できなくなってしまう。だから国外で定評のある安定した取引先を各国に確保して、T楽器は国内販売を無視して成り立っていた。

 

 しかし日本は、アメリカ、ヨーロッパと並んで三大市場のひとつである。H社長とて、いつまでも無視し続けるつもりはなかった。日本のユーザーのブランド信仰をいやという程痛感したH社長は、日本市場にうって出るタイミングを慎重に見計らっていた。それはユーザーに受け入れられるタイミングだけではなかった。日本の代理店となる販売会社の受容れ姿勢が成熟するのを待っていたのだと思う。

 僕が初めてT楽器を訪れたのは1978年だと思う。その2年前から、日本国内ではT楽器のギターがある本の出現によってセンセーションを巻き起こしていた。この本は1976年に日刊スポーツ出版社が発行した、その名も“楽器の本”というムック形式の320ページに渡る分厚い、中身の濃い一冊である。

 それまで音楽の本はたくさんあったし、楽器の事もある程度は取り上げられていたが、この本は楽譜が一切載ってなかった事が何より新鮮で、しかも主役が音楽ではなく楽器であったというのも初めての試みであったと思う。巻頭のアメリカの楽器店やスタジオ、ライヴハウスの写真や記事は、初めて見るものばかりだった。最近でこそ海外の製作家を訪ねたりインタビューしたりする本は当たり前のように見かけるが、当時の情報不足の時代に、この本の登場はインパクトがあった。業界の人間は確実にみんな買っただろうし、ユーザーの間でも話題の本となった。

 

 

 その本の巻頭グラビア記事の4ページ目に、カリフォルニアの青年が手に持っているギターが「アメリカでもかなり人気のTギター、勿論日本製」というコメント付きで紹介されていたのである。

 これを読んだ国内のギターファンはTギターは「なぜ日本で販売していないんだ」「どうやったら買えるんだ」ということになったのだが、H社長はその声に応じていなかった。この時アメリカで販売されていたTギターは、以前日本で別のブランド名で販売していて散々苦労したギターと名前が違うだけという事実を冷静に認識していたからだ。

 その時Tブランドで日本で販売し直せば、ある程度の成功は収めただろう。僕もそうしないH社長にジレンマを感じていた。しかし、今なら理解できる。ただブランドが変わっただけで短絡的に国内発売に持ってゆくのは愚かな考えだ。H社長はもっとスケールの大きな凱旋にある程度自信があったに違いない。否、当時そこまで先を読んでいなかったかも知れない。しかし、少なくとも、業界や一部のギターファンが騒いだからと言って、たった一冊の本の登場だけで国内に戻ってくるのは、早計だと冷静に判断していたのは間違いない。この態度を目の当たりにして、これが僕にとって、業界で一番尊敬した人物から学んだことの最初の出来事であった。

 出会ってから2年近く経ったある日H社長に工場へ呼ばれ、2台のギターを見せられて感想を求められた。  

 

​<エレアコ誕生物語 その2に続く>

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