​エレアコ誕生物語(最終話)
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 全ての楽器に当てはまるかどうかは判らないが、楽器業界は夢を売る業界だ。そればビジネス的に言うとブランドイメージを如何に操作するかの戦略の戦いでもある。言葉で表現することの難しい、人々の憧れ意識を惹きつける“感性”をビジネスの活動を通じて具体化できる能力がないと、ブランドは育てられない。

 H社長はいつも好奇心旺盛で、常に同年輩でなく、工場内の入社したての、これからの自分の人生がまだ見えていないようなヨチヨチ歩きの従業員を好んで休日の遊び相手にしていた。仕事でもビジネスマンよりアーティスト達と接する事を好んだ。外観は年相応に老けていても、気持ちは断然若くて常にエネルギッシュだった。ユーモアにあふれ、あれほど大きくて温かい人を僕は他に知らない。

 楽器業界は狭くて小さい。そこでの経営者達もおのずとスケールが小さい。しかしH社長の人間的なスケールと経営者としての手腕は、業界の規模を問わない普遍的なものだと確信する。今や楽器業界を離れ、全くの別世界で様々な人物を見てきて、僕は一層その意を強くした。

 エレアコの原型はH社長が陣頭指揮をとってアメリカと日本を往復して作り上げた当時のものと、今も基本は何ら変わっていない。大きな財産をギター業界に残して、H社長は80年代の後半に亡くなった。

 僕は自分が感性豊かな年代の時期にH社長と巡り会えて幸運だった。そのおかげで大きな仕事の成功体験を共有させてもらうことができた。この写真はシカゴの街角で取った記念写真。年に何度もアメリカを訪れる社長は「こんなことろで写真を撮っていたら田舎モンと思われる・・・」と言いながら、しぶしぶカメラに納まってくれた。

 

 この物語の最後は、エレアコを引っさげてMADE IN JAPANのギターを始めて世界的なブランドに育て上げたH社長のエピソードをいくつか紹介して、この長いエッセイを締めくくりたい。

 

 エピソード:1《二度目の人生》 

 僕が巡り会った頃H社長は60代と言ったが、H社長はこの工場の6代目の社長だった。それまでは全く別の業界にいて、その会社を定年退職してから、それまで趣味で接していた楽器業界に縁あって、当時倒産しかけていた工場の建直しを引受けて社長に就任した。

 つまりH社長にとって楽器業界での仕事は、サラリーマン引退後のおまけの人生のように僕には思えてならないのだ。その、おまけの人生で、これほどの功績を業界に残した偉大さを想像してみて欲しい。

 

 エピソード:2《手腕》 

 倒産しかけた工場を立て直すため自宅のある大都市を離れ、田舎の村に乗り込んできた時、ギターを弾ける社員が全くいなかった工場へ、自分の信頼する演奏と営業のできる若者(当時この若者も楽器業界を離れてしまっていた)を、何度もたずねて説得し、街から田舎へ引き連れてきた。おまけに独身者のこの若者が会社に居つくよう、結婚相手まで探してきたという。

 こうして適材適所の人を集め次に着手した仕事は、当時この工場が抱えていた不良品の山を処分する事であった。傷や打痕で戻されて、山となった不良品をH社長は白く塗って売り出した。すると不良品の山がヒット商品となって飛ぶように売れたそうである。どうにか就任時の危機をアイデアと行動で見事に乗り切り、T楽器を世界に羽ばたかせる第一歩をスタートさせた。

 とは言っても、倒産の危機を回避しただけのことである。世界を語るなど夢のまた夢、その後も度重なる危機を何度となく乗り越えて着実に生産技術を上げていった。

 その長い苦労の道のりからすれば僕がH社長と巡り会った頃は、もうお膳立てがほとんど整ってブレイク寸前の時期だったのだ。H社長の苦労に比べれば、僕のエレアコに対する功績は、ただ助走をつける手伝いをした程度に過ぎない。

 エピソード:3 《一流》 

 僕が出入りするようになった頃のT楽器は、世界的でも著名な国内屈指のクラシックギター製作家K氏に技術指導を受けていた。この事についてH社長から経緯を聞いたことはなかったが、今にして思えば、この行為の裏にもH社長独特の哲学があったに違いない。当時、フォークギターをメインに造っていた(しかも量産価格帯の)T楽器に、世界のK氏とはいかにも贅沢な組合せである。しかし、この一流人からの指導の裏付けがあったからこそ、工場の従業員達は自社の技術力に自信を得て、世界に羽ばたく土台を積み上げていったに違いない。一見、不釣合いなこの組み合わせも、今や世界で成功を収めるに至った経緯からみれば、必要なプロセスのひとつとして当然だったことのように見えてしまう。

 エピソード:4 《家族》 

 中小企業経営者というのは、どうしても自分の身内に跡を継がせたがる。たとえそれが無能なバカ息子だったとしても、である。確かにこれには無理からぬ理由もあるにはある。銀行は金を貸し出す際、経営者の個人保証を求める。すると経営者にしてみれば、自分の家財産が担保に入っているのに、他人に会社を継がせる気になる訳が無い。かくして日本企業の9割以上が中小企業の同族経営という話になる。僕も楽器業界で嫌と言うほどこの手の跡継ぎ連中を見てきた。

 ところが、このH社長は自分の身内は一切仕事に巻き込まなかった。もっとも奥さんは田舎に引っ越すことになってしまったが、それなりに老後の田舎生活をエンジョイされていたと思うし、息子さんは銀行の支店長を務めるエリート(今の話ではない、あくまで当時、バブルも始まる以前の古き良き銀行時代の話)で、立派に自立している。H社長のどこか気楽で大らかな態度は、つまりギター工場の仕事は自分の趣味のような、そんなスタンスがどこかにあったに違いない。

 エピソード:5 《好奇心》 

 H社長は工場から車で2時間ほど離れた大都市にも自宅があるのだが、普段は工場の向かいに建てた家に奥さんと暮らしていた。ある日、工場を訪ねた僕と一緒に帰って、僕の家に泊まると言い出した。独身の僕の1Kの小汚い部屋に一晩泊まると言うのである。工場の上層部の人達は驚いた。皆「高齢だし、くれぐれも頼む」と心配した。僕も部屋の悲惨さを充分に解説したのだが、「大丈夫、俺は若い頃は軍隊にもいたんだ、それくらい平気だ」というのである。

 エピソード:6 《別れ》 

 H社長が亡くなった後、奥さんから聞いた葬儀の日の出来事。「雪の降る中を自宅から棺を担いで出たら、若い綺麗な娘さんが、棺にしがみついてきて大きな声で泣くの・・・」というのである。

 話によると、その娘は隣町の駅前にある喫茶店でアルバイトしていたらしい。彼女は就職を控えており、都会に出てアナウンサーになることを望んでいたらしい。それを知った店の常連客H社長は「放送局に紹介してやる」と言い出したのである。ところがそれを知った彼女の父親が娘を叱って「こんな田舎町の見ず知らずの客の口車に乗るな」と言ったそうである。彼女も父の話に納得したらしく、その後はH社長を遠ざけるようになってしまって、H社長は寂しく残念な思いをしたそうである。

 誰にでも若い人に気軽に声をかけて面倒を見てくれるH社長。彼女の望む都会の放送局の、役員にまで登りつめた看板アナウンサーの仲人がH社長夫妻だった事を知っている僕に言わせれば、この娘は哀れにも人生の大きなチャンスを袖にしたわけだ。後に何らかの形で事実を知った娘は、本人に非礼を詫びることもできぬまま、この日を迎えてしまった。

 奥さんは続けた。

「工場の従業員全員が無言で見守る、静かな、雪の舞う中を、娘さんの泣く美しい声が響いていて、まるで映画のようだったのよ。アナウンサーになりたいと言うだけあって、声が綺麗なの。おとうさんは最後まで女性を泣かせるんだから・・・」

<エレアコ誕生物語 完>