マイケルヘッジスについて語ろう
1997年12月自動車事故で44歳の若さでこの世を去り、後世に語り継がれること間違いなしのアコースティックギター界の革命児、マイケル・ヘッジス。僕とイサトさんに挟まれて立つこの人である。これはヘッジスの初来日の時の写真である。もう、随分昔のことで記憶も定かではない。1984年か、85年くらいの頃だろう。当時、名古屋に住んでいた僕をイサトさんが電話で誘ってくれて、大阪での対面が実現したのだった。
その経緯に触れるには、神戸のギターショップ「ヒロ・コーポレーション」について語る必要がある。当時、全国の町の主要な楽器店へはほとんど行った経験を持つ僕でさえ、この店はそれまで見たことのない変わったギターショップであった。店内はただの事務所風でギターは一本たりとも飾っていない。全部がハードケースに仕舞われていて棚に収まっている。話の内容に応じて必要なものをギターケースから取り出して見せてくれるのだ。これでは相当腕に自信のある者でないと、ギターを見せて欲しいとは言い辛い。よく1980年代にこんな排他的な尖がった店をそれも関西で実現していたものだ。
ところが、店主の冨田さんは人懐っこい話しやすいおっちゃんである。我々共通の事ではあるがギターの話をしだしたら止まらない。ただし商売人として、この人はいったいギターを売る気があるのか無いのかは分からない謎めいた人なのだ。ある時店を覗いたら部屋は留守でもぬけの殻。店主はビル1階のすし屋にいて「おう、一緒にすし食おう」という事もあった・・・。
売る気の有る無しはさて置き、アコースティックギターに対する品揃えには拘っていた。どういう経緯かは知らないが、当時からグレーベンを独自に仕入れ、コツコツと販売していた。
話はさらにマイケルから逸れるが、当時イサトさんが気に入って使った影響で、大阪の教室の連中は何名かがグレーベンを使い始めた。その頃、海外の手工ギターといえば、他には僕が輸入に携わったラルビーくらいが日本では唯一メジャーだったろうと思うそんな時代である。そんなラルビーのヘッドストックを飾るインレイの素晴らしさが鮮烈だった当時、グレーベンのヘッドストックの鷲は笑えた・・・。いつもイサトさんとは「鳩」といって茶化していた。鷲のつもりのインレイだろう事は想像できるのだが、どうにも細工がお粗末で鷲が丸くて精悍さがなく、鳩にしか見えないのだ。
そのほかに冨田さんが当時仕入れていたのは、サンタクルーズもそうである。それらの工場に自分で選んだ極上の材を送って、自店が注文した際にはそれを使って作るようにしていたようだ。さらにそれに飽き足らず、日本の製作家(クラシックギターの職人)に様々なオールドの名器を見せてオリジナルのギター製作を指導したり、生ギターの音を忠実に再現する専用ピックアップシステム(これは後に三好君がMファクトリーとして開発することになるシステムの原型=エッセイ「師匠とのビデオ出演」参照)を開発したりと、この国のアコースティックギター界の発展に寄与した功績は大きい。それらを可能にしたのはイサトさんが当時大阪にいて、いろいろとアドバイスしていたことが大きかったことは言うまでもない。
後に、岸辺(眞明)や、押尾(コータロー)らもここの常連客として、自分たちの商売道具としてのギターについての薀蓄を冨田さんから教わったはずである。楽器業界、特にアコースティックギター関係の業界人はたいてい顔見知りだった当事の僕にとって、この人の存在は異端に映った。日本国内では業界人とはほとんど接点をもたないのである。一度、店のオリジナルギターを仕舞う高級オリジナルケースの製造先を紹介してもらえないかと相談を受け、僕が愛知県のハードケース工場を紹介してあげたことある。いずれにしてもよくぞこんなな孤独な環境で(しかも神戸という土地で)アコースティックギターを専門で販売するという事業を継続して来れたものだとつくづく感心させられる。
・・ここらで話は本題に戻るが、この日どういう関係からかは知らないが、その冨田氏が自店のオリジナルギター「フィールズ」をヘッジスに観てもらうというチャンスを作ってきて、イサトさんと僕はそのプレゼン場面に一緒に立ち会うことにしたのだ。
ヘッジスがMARTINのD-28をメインに弾いていることは既に知っていた。また、あれだけの独特のサウンドを創るには、相当カスタマイズされていることも容易に想像できた。果たして日本製のオリジナルギターがどういう風な評価を受けるのだろうか? 当日午後、神戸の店に集合し、ギターを(確かタイプの違った物を2本)用意してコンサート会場に持っていった。
かくして、リハーサルを終えた本人と楽屋で対面した。ヘッジスは座ってフィールズ(ドレッドノートタイプのカッタウェイ)を弾いた。上の写真はその時に富田さんに撮ってもらった記念写真だ。
僕がマイケル・ヘッジスというギタリストの存在を知ったのは、イサトギター教室の合宿参加者の連中との交流から仕入れた情報だった。そこに集まる連中は僕に様々な情報を与えてくれる。それには少々の魂胆がある。
海外に未知のギタリストが登場したらその演奏を僕にコピーさせようとするためだ。当時僕は気に入ったギタリストの曲は手当たり次第にコピーしていた。言うまでもなく、インターネットもなければ、ビデオも楽譜集もない、頼れるのは自分の耳だけの時代である。そんな中で僕のコピーの早さには定評があった。コピーを完成させるということは、即ちそれを弾いて立証しなくてはならない。採譜できたとしても、およそ弾けそうにない運指では本当にそれが正しいコピーであるとは証明できない。同じ音のニュアンスをギターで再現できてこそコピーが正しいものだと言える事になる。僕はコピーも演奏をマスターするのも早かった。まだ当時の我々にとっては未知のチューニングも多かった時代、なかなか完璧にコピーするのには骨が折れた。曲によっては、イサトさんを含めた数名の教室のエキスパートが総がかりで取り掛かってコピーしても、なかなか正解に辿り着けないことも度々あった。
そんな時代、ヘッジスの登場は大きな衝撃だった。曰く、「ヘッジスは立って弾くらしい」、「ギターを叩くらしい」、「左手でも音を出すようだ」といった散発的な情報が飛び交い、未だ観ぬベールに包まれた海外の新星ギタリストの登場は興味深々で、イメージはどんどんと膨らんでいった。
合宿から帰って早速レコードを手に入れた。少し驚いたことに、この頃マニアックなこの手のレコードは輸入盤としたものだったが、これは既に日本盤が出ていた。演奏は確かにこれまで聴いたこともない世界観の音楽だった。音も相当イコライジングされているようで、およそ今まで僕が聴いてきたギター音楽とは違った音色であり、曲想もその世界観も独特である。今まで接してきたギター音楽の枠組みとは違ったパラダイムで展開されていると感じたのを記憶している。
まさかその後、すぐに本人が来日を果たすとは思ってもみなかった。その頃、僕たちが好んで聞いていたアーティスト達で日本に来てコンサートを実現した者など数えるほどである。当時、日本国内にはフィンガースタイルの音楽を聴く者たちはごく少数に限られていたし、というよりも、聴く者イコール弾く者だっただろうそんな時代、海外のギタリストを呼んで興行的に成り立つケースは皆無といっていい状況だった。現にリチャード・ラスキンなんて1970年代以降、これほど日本でコアなファンがいても、今もって来日は実現しない(正確には、リンダロンシュタットのバックバンドの一員として来日してはいたようだ)ことからも明らかで、当然、このマイケル・ヘッジスにしても実物の演奏を生で観ることなど夢にも想像していなかった。
マイケル・ヘッジスが属しているレコードレーベルはちょっと他と違っていた。当時、台頭してきていたWindham Hill(ウインダム・ヒル)というレコードレーベルは、既にピアニスト、ジョージ・ウインストンが日本でトヨタのクレスタのテレビCMに使われたり、テレビ番組のBGMにもよく登場したし、来日コンサートも果たしていた。
ウインダム・ヒルの社長、ウイリアム・アッカーマンは建築会社の経営者という仕事の傍ら音楽ビジネスを始めたという、変わった経歴のギタリスト。自らもギターを弾く社長という立場は、ステファン・グロスマンやピーター・フィンガーとも共通するが、メジャーな成功という意味では、ウイリアム・アッカーマンが一番の成功者といえるだろう。「自然と人間の調和」というコンセプトの元に集められた音楽は独特のジャケット写真と透明感のあるサウンドで構成されており、それらは一部の演奏マニアのみが聴く音楽と異なり、純粋にBGMとしても耳触りのいい心地よいサウンドを有していた。当時の言葉で言えばイージーリスニング、あるいはニューエイジ・ミュージック等とも呼ばれたりした。ピアニストのジョージ・ウインストンが看板アーティストとして名を馳せたわけだが、ギタリストの看板プレーヤーは社長のアッカーマンやアレックス・デ・グラッシを凌いで、このマイケル・ヘッジスが偉才を放っていた。
彼とはその後、最後の来日となってしまった90年代前半、今度は新宿のルミネホールで再会した。リハーサル時の合間に「Ragamuffin」という彼のオリジナル曲について(この頃すでにコピーはほぼ完ぺきにできていたけれど)、どうやって弾いているのかを尋ねて教えてもらっている時の様子が、このエッセイのタイトルに使った写真だ。この時の様子は動画にも収めてあって、同じ個所を何度も何度も繰り返し、時にはスローで指使いを一つ一つ懇切丁寧に見せてくれたこのビデオはいまとなっては僕にとっては貴重な宝物である。
彼が登場して世界のギター界に与えた影響は計り知れない。それはあえてここで僕が語るまでもなく、多くの人々が彼について語り継いでいる。僕はイサトさんの計らいもあって非常に幸運に恵まれて彼との対面を果たせたにもかかわらず、彼の音楽には影響を受けなかった。否、受けたくなかった。
イサトさんに影響されてフィンガースタイルの音楽に目覚め、そこから教室を通じて知った様々な海外のギタリストとその音楽を夢中にコピーした数年間は、今から振り返ると自身のギター人生の中でも特別な時間を過ごしていた時代で、僕がマイケルの音楽に出会った時点は、そろそろそういった他人の創った音楽を無我夢中で模倣する時期から脱しようとしていた頃でもあった。
自分がそうした時期を迎えていたタイミングもあって、彼が開拓した独自の奏法による新たな音の世界は、僕にとっては別の宇宙の出来事のような存在としてしまった。その一方で彼がもし今もいてくれたら、いったいどんな宇宙を我々に見せてくれただろうかとも思い続けている。