​師匠とのビデオ出演(後編)
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 このビデオの収録は、解説も、演奏も横浜のスタジオで行った。完成したビデオの進行はエレアコの解説から始まり、僕の出番が終わる時、イサトさんは「後ほど演奏を一緒に・・・」と言うのだが、実は収録はギター演奏から撮った。1泊2日で初日午後からデモ演奏のデュオを2曲、翌朝から解説の収録である。僕は名古屋から、イサトさんとスタッフ達は東京から入った。初日の午後、僕が着いた時にはイサトさんは既にスタジオ入りしていて、ライティングや音のセッティングも完了していた。スタジオは僕が名古屋から着くのを待つばかりの状態でスタンバイしていた。僕は着いて早々、自分のギターのセッティングを始めた。イサトさんと会うのも久しぶりだったが、一緒に演奏することがなにしろ久しぶりだった。

 ビデオ収録の話をイサトさんからもらったとき、曲を一緒に2曲入れたいとの話だった。それまでイサトさんと人前で演奏したことは何度かあるけれど、今回は何を一緒に弾くのかと思ったが、一曲はやっぱり「オレンジ」であった。この曲はイサトさんともこれまでに何度となく人前で一緒に弾いたことがある。ただ、このビデオ収録の話が持ち上がった当時は、もうイサトさんと最後に一緒に弾いてから相当年月が経っていた。よく一緒に弾いていた時代も、その時々によって、お互いのフレーズが違うし、長さや構成も違ったりした。久しぶりに、しかもカメラの前で、いったいお互いどういう展開で弾く事になるのだろうか・・・。

 ところが演奏については、イサトさんは解説の収録以上に何も事前に相談をしてこない。考えようによっては、僕も随分とイサトさんに信頼されていたものだ。師匠が自らのフィールドに昔の弟子である僕を引き上げ、演奏の機会を与えてくれる。しかも一切注文なしである。これほど弟子冥利に尽きることはない。

 

 オレンジは、イサトさんのアルバム“1310”に収録され、その中での演奏は有山(じゅんじ)さんと一緒にデュエットしている。当時1977年、国内最初のメジャー(CBSソニー)から出たアコースティックギターのインストルメンタルアルバムである“1310”の収録は、ちょうど僕がイサトさんにギターを習っていた頃のことだ。教室が終わると、いつも一緒にお茶を飲みに行って、業界の裏話、いろんなミュージシャン仲間のエピソード、そしてもちろん音楽についての考え方など、ギターのテクニックを教わるのと同じくらい、刺激的で楽しみなアフタースクールの時間があった。

 その頃、イサトさんは録音作業の進み具合に触れて、有山さんのギターをものすごく褒めていたことを今も鮮明に覚えている。(もっとも、その時褒めていたのは、“オレンジ”での演奏のことではなく、“不演唱”という曲でのリードプレイについてだったが。)その後、発売されたアルバムを聴いて、僕は一発でオレンジが大好きになった。有山さんのリードのフレーズも個性的で実に印象的だった。

 当時の僕にしてみれば、ただリスナーとしてしきりに感動していただけで、この人たちの作品に自分が割って入ることなど、夢にも考えていなかった。僕は今でもイサトさんのオリジナル曲の中で、このオレンジは大好きな曲のベスト3に入る名曲だと思っている。イサトさんのというよりは、海外の僕の知る大勢のアーティストの数々の曲の中でも、上位にランクしたい名曲だと思っている。聴く分にはもちろんとして、弾くにも指の運びとメロディの動きが心地いいのだ。

 このレコードの出た当時なら「イサトさんが風邪でステージを空けるときがあったら、僕が弾けばいい」と周囲に言われるほど、ことごとくイサトさんの曲はコピーしていたが、イサトさんの曲はどの曲も、指の動きとメロディの動きが心地良く、実にセンスのいいコンポーザーだと感心させられる。その名曲オレンジを、発表後10年以上の時を隔てて映像とともに残る形で演奏に挑戦するのには、やり応えもある反面、少しばかり勇気も要る。アルバム1310に収録された有山さんのこの曲でのリードは、ほとんど曲と一体化したメロディに近い出来映えである。しかも曲の途中からはフィドルが入る構成になっている。イサトファンには、みんなこの有山フレーズが耳に染み込んでいる。それに加えて途中のフィドルが入る部分を今回は二人だけでつなぐわけである。深く考えると悩み多い状況である。

 ともあれ発表後10年以上を経たこの名曲に、時代の変遷と自分らしさも同時に反映させたかった。このビデオでのオレンジ収録は、そんなことを考えながら取組んだ。

 

 さっそく席について、ライティング、カメラアングルの調整やら、サウンドチェックが始まり、イサトさんと僕は曲を合わせ始めた・・・。1~2回合わせてみて、大まかな役割分担がお互いで暗黙のうちに決まった頃、さっそく収録してみようと、あっけないほどすぐに本番に入った。僕がスタジオに入ってから30分ほどしか時間は経っていなかったのではないだろうか。1回演奏が終わるごとに、2人でミキシングルームへ行って確認するのだが、当然イサトさんは自分の音を中心に聴き、僕は僕で自分の演奏が気になる。フレーズ、ノリ、音色、音量、演奏姿勢など、気にしだすと際限が無い。

 これはイサトさんが主役のイサトさんのビデオである。僕は当然ながら自分の満足よりも、イサトさんがどのテイクを気に入るかに従わざるを得ない。全部で4~5回録ったテイクの中で採用されたのが、いま発売されているこのテイクである。 

 

 ビデオ収録の話が持ち上がった時点から、2曲演奏することは決まっていたけれど、オレンジ以外のもう1曲が決まるまでは少し時間があいた。最近のフィンガーギタリスト達はソロ演奏前提の曲が多いが、イサトさんのレパートリー構成は、ミュージシャンとしてのスタート地点の違いか、あるいはそこからくる交友関係の幅広さとキャリアの関係からか、バリエーションがはるかに広い。歌ものも豊富だが、デュエット曲もかなりある。その中で、いったいどの曲を指定してくるのか?僕は主役の意思決定を待つのみである。そして、電話で「“PERUGINO”をやろう」と連絡が来た。もちろん曲は知っていたが弾いたことはない。このデュエット曲もやはり“After Hours(1988年リリース)”というイサトさんのアルバムで相方を有山さんが、“Crescent Moon(1989年リリース)”というアルバムでは(岡崎)倫典さんが相方を務めている。

 少し話しはそれるが、これらのアルバムが出た頃になると、イサトさんは全部アルバムと一緒に楽譜集を出していた。僕はアルバム1310が出る以前までは、楽譜集“ミスターギターマン1”を唯一のバイブルにして、これに載っていない曲はすべて耳コピーして、イサトさんのレパートリーを消化していった。1310が出た頃には本人と直接交流があるわけだから、答えはいつも目の前にある。よくイサトさんの家に遊びに行っては、夜な夜なイサトさんのギターを部屋に引っ張り出して、「あの○▲という曲のサビの部分はこうやって弾いているのでしょ?」と本人にたずねる。すると「いや、僕はこうやって弾いている」などと見本を示してくれる。(注:断っておくが、ここでの会話は音が同じにコピーできているのは当然の状態で、僕はただ運指を尋ねているのである)以後、楽譜集がすべて親切に出る時代になってからは、何故かコピーする情熱が冷めてしまった。答えがあまりに簡単に手に入りすぎて、音を推理する楽しみがなくなってしまったのだ。

 これは僕の持論であるが、「その曲がどんなチューニングで演奏されているのかさえ判ったら、コピー作業の7割は終わったも同然である。」と、考えている。永年、さまざまな曲をコピーしてギターを弾き続けてくると、フィンガーボード上の6本の弦で演奏される以上、およそ出てくる音の範囲が見えてくる。ましてそれがレギュラーチューニングだと尚更である。一度、レギュラーチューニングを全体に半音落としてレコーディングされた曲をコピーするのに、それを見破るのに時間がかかってしまって苦労した経験がある。E(6弦)より低い音程がその曲に含まれていたために、てっきり変則チューニングだと思い込んでしまい、いろんなチューニングを試して随分と遠回りさせられてしまった。これも遠い昔の経験だ。・・・そんなことから、今は経験の蓄積と永年の“勘”のようなもので、音が判る。曲によってはあえてギターを持ち出す弾かなくても、指の形まで想像できる。これは絶対音感というものとは別物だが。

 

 さて、話は本題の2曲目、PERUGINOに戻るが、有山、倫典という有名どころに割込んで、これまた僕が一番後発で、PERUGINOの料理の腕前を披露することになるわけだ。これは僕の勝手に思っているイメージだけれど、PERUGINOという曲には、ヨーロッパの古い映画に出てくるような雰囲気がある。マイナー調で、洒落たコード展開で、大人のムードの曲である。それにメロディがきっちりとした輪郭を持っている。歌詞が付いてて唄ってもおかしくないような、はっきりとしたメロディだ。それでいて途中のサビの展開はフュージョン風に自由度が広がる。なかなかに難題である。オレンジでは有山さんが弾いたあまりにも特徴的で、印象的なリードメロディを踏襲しつつ、僕なりのフレーズを散りばめた。

 PERUGINOは有山さんと倫典さんとではまったく印象が違う。これらにはどちらのフレーズが良いとか悪いとかいった問題ではない、それはあくまで個人の好みの領域である。つまりオレンジほどにデュエット展開全体の印象は、聞く側にも固まっていないと僕は受け止めていた。

 収録までの時間を逆算し、まず僕はこの曲のテーマ(イサトさんの演奏パート)をコピーした。そうやって曲の構成を覚えてから、自分のリードパートに取り掛かった。この曲こそは、当日スタジオで合わせるのがまったくの始めてである。イサトさんは僕がこの曲をどう料理してくるのか、まったく訊ねもせずに当日まで放っておいてくれた。先に準備運動代わりにオレンジを収録し、次いでこの曲も4~5回弾いておしまいだった。都合2曲録音して合計2~3時間の作業だっただろうか。

 

 以上のような具合に、初日の「演奏収録」は終わってみたら拍子抜けするくらいに軽く終え、あくる日の「解説収録」に関心は移っていった。元々、今回の仕事内容からるすと、弾く方よりも、問題はカメラの前で話すこと・・・であった。こっちの方はまったく未経験の領域で、僕はコンサートの曲の合間に話すことはまったく苦にしないが、カメラの前で淡々と話し続けるという行為には、いささか不消極的な気分になる。というのも、僕は出身地、京都を離れて何十年となるというのに、まったく関西弁が抜けていないからである。

 テレビなど映像の世界では出演者はみんな標準語をしゃべる。平気で関西弁をしゃべって観る方にも自然に許されているのは、“お笑い”の世界の住人だけである。関西出身の美人女優や、イケメン路線を行く人達はみんな、言葉の矯正に相当なエネルギーを使うことを余儀なくされる。・・・関西に生まれ育った者の哀れな宿命である。とはいえ、相手はイサトさん、コテコテの関西弁の使い手、なんら心配には及ばない。お互い地でいくしかない。ただ、ギターのように収録が決まってから、自宅でみっちり練習するという訳にはいかないのが、この「解説収録」のやっかいな点である。この収録を終えて以降、めったにビデオを観ることもしないが、たとえ観る機会があったとしても、僕は「解説」の部分は飛ばして観てしまう。何か、わだかまりがあるのだろう。

 最後に、収録時に僕が使用したギターについて触れておこう。このギターはT社製の当時30万円定価で発売したものの、カタログ撮影用に製作されたものである。ここに掲載した写真を見ても、トップのスプルースの色が日に焼けていない真っ白な状態なのが、よく分かると思う。まったくの新品で、市販用に規定どおり作られたものだから、ナットもサドルも高く非常に弾きにくかった。なぜ規定どおりに造ると弾きにくいかというと、一般市場に出荷する時点では、買い手がピックでストロークを弾く人なのか、フィンガーで弾く人なのかが決まっていないからだ。当然、メーカーの立場としては、“大は小を兼ねる”で、リスクの小さい方にセッティングを合わせて造る。たとえ僕でも、たった数時間の演奏のために高価な売り物である商品を自分のセッティングに合わせるわけにはいかない。

 そんな訳で、録音当日にしか僕はこのギターにはまともに触れていない。・・・その点において、慣れない道具を扱いながら、無難な形でビデオ収録を終えることができた点に関しては、我ながらよくやったと自負している。今回の収録は通常の録音と違って映像もある。それに加えてこういった諸条件が重なり、僕にとっても、より大きな経験をもたらす機会となった。教室卒業後10数年を経て、あらたに貴重な経験を与えてくれた師匠イサトさんには本当に感謝しなくてはならない。

 また、KMPからの出演のギャラも今回は非常に多額だった。今だから時効だろうが、この日の僕は会社の製品の宣伝のためとして、出張費で横浜へ出かけ、詳細は忘れたが、多分、宿泊代も日当ももらっていただろう。一銭も自費の出費なしに、高額のギャラをいただいて、非常にオイシイ仕事に参加させていただいたのだった。

 このあと僕はこのギャラで、三好君のシステムを自分の愛器サンタクルーズに装着してもらった。前編で話したように、僕はビルトインタイプのエレアコ側代表で出演した当人であるにもかかわらず・・・である。別に、ギター演奏で生活していたわけでもない僕にとって、この高額のギャラをギター界に戻すための、せめてもの罪滅ぼしの気持ちが芽生えたのかどうかは、自分でもその当時の気まぐれとしか言いようがない。

 後日談であるが、年が明けてある頃イサトさんと電話で話していて、ビデオの発売日の話題になった。その時、何が問題になったのか、「部分的に再収録する可能性がある。」と、言っていた。その数日後、また電話で話していたら、「やっぱりあのままで出すことになった。」とのことだった。理由は「この前、散髪したから髪型が違うし、部分的に撮り直したらおかしいということになった・・・。」という・・・。ぼくには発売後の中身を観て、どの箇所が問題になったのかは分からない。その程度の些細な問題だったのだろうが、ともあれ、そんな理由で撮り直しは回避され、無事、予定通りの日程で発売の運びとなった。

 2022年4月7日、中川イサトさんが亡くなられました。享年75歳。ここ数年LIVE活動から遠ざかり、共通の知人達から断片的に近況は聞いてはいたものの、直接会う機会も作れないままこんなに早く別れを迎えてしまいました。

 僕が教室の門をたたきイサトさんと初めて会ったのが、イサトさん29歳の時でした。それからイサトさんが40歳を過ぎたころまで、それこそ名古屋と大阪、あるいは後に東京に居を移してからも1週間と開けずに電話や時には会って、という濃厚な関係が続きました。

 このビデオが発売されたのがイサトさん40代前半の頃。これを録ったしばらく後に僕は楽器業界を去り、ギター界からも遠ざかった生活に入ってしまい、イサトさんと連絡を取り合ったり、会ったりする機会は激減しました。

 約30年の後、僕は再びギターに向き合うつもりで行動を開始したのですが、イサトさんにキチンと報告できる形を作れるまでに至らない段階で、この日となってしまいました。

 

 翌朝の新聞各紙でその訃報を伝えていたことからも、今更ながら我が国を代表する偉大なギタリストだったと再認識したと同時に、メーカー、小売店、出版界、そしてもちろんアーティスト達を含めた日本のアコースティックギター界に絶大な足跡を刻んだこの人が、僕の師匠であったことの幸運に心から感謝しています。