3日かけて3分、ようやく対面できたブルース・スプリングスティーン
彼は1985年4月、日本に初来日した。これはその時の写真だ。当時の僕はBRUCEのことをあまりよく知らなかった。ただ、この時いかに苦労してこの写真に収まったかという道のりを辿ってみて初めて、いかにこのミュージシャンが大物だったのか雰囲気は充分に体感した。 どうやってこの場面にたどり着いたかを話す前に、当時の僕と同じようにBRUCEの大物振りを知らない人のために、少しその片鱗を紹介しよう。
彼が1984年にリリースした“BORN IN THE U.S.A.”というアルバムはアメリカで1000万枚以上、全世界で2000万枚以上のヒットを記録した。その勢いでグラミー賞の最優秀ロックボーカリストにも輝き、合衆国大統領候補が演説に引用するくらいアメリカでの存在は大きい。日本の高校の英語の教科書にも登場している。こんな具合にミュージシャンとしての存在だけにとどまらない大物である。ただし、これは僕が彼と会ったずっと後になって知った事で、当時はまったくBRUCEの大きさを知らずに会いに行った。
BRUCE(というより、正確には彼の一行のギターメンテナンス担当)と会うことになったのは、彼がオーストラリアツアーから日本へ直接入ってきた翌日の午前だった。僕は名古屋から東京へ出て、東京では営業所の誰か時間のあいている者にギターを車に積んで僕を迎えに来てもらい、今は無くなってしまった赤坂プリンスホテルへと向かった。
行きの車中で僕を迎えに来てくれた者はひどく興奮していて、「BRUCEに会えるんですか?」と聞いてくる。僕は彼にBRUCEのことを予備知識として教えてもらいながら、目的地へと向かった。ホテルではマネージャの部屋に案内され、彼らが要求するギターのことについて相談した。
ついでに(この時はあくまでついでに)、「BRUCEに会わせてくれないか?」と訊ねたのだが、「彼はまだ、昨日のコンサートの疲れで眠っている。休ませてやってくれ」との事だった。あわよくばギターを持たせて写真を撮りたかったのだが、この時は叶わなかった。ひとり、小さい背の男が部屋に入ってきて、ギターを見せて欲しいといって触り始めた・・・。10分ほどして彼は部屋を出ていったが、その時になって僕の同行者は、「あ、あ、あれは、NILS LOFGRENだったじゃないですか」という。「有名なのか?」と訊ねたら、「そりゃあもう・・・。」といった具合。「もっと早く言え!」・・・結局、誰の写真も撮れずに帰ってきた。
写真を撮りたいのには訳がある。当時ギターの開発と宣伝の両方をやっていた僕にとって、有名ミュージシャンが使っている写真をカタログとかで使わせてもらう事ができたら、そのギターの売れ行きが数段変わるからだ(こういった顕著な例は、僕の経験した例では、長渕(剛)、坂崎(Alfee)らの使用する特定のモデルを相当数売ったことで実感している)。
ともあれ、今回の相手はホテルの部屋の豪華さを見ただけでも相当の大物だ。たとえギターの1本や2本あげたところで、写真をカタログに使わせてもらうなどはとんでもない事に思えた。ひとつ断っておくと、僕が彼らと会う一番の目的は彼らとギターの写真を撮ることではない。その前に、そのギターを彼らが気に入るかどうかが第一条件である。でないと彼らはそのギターを使わない。ギターは彼らの商売道具だ。その商売道具を彼らの満足するように相談を重ねながら改良してゆくことは、彼らにも我々にもメリットがある。それはスポーツ選手とスポーツメーカーの関係を想像すれば理解できるだろう。ついでに宣伝にまで協力してくれるかどうかは、またひとつ別の交渉となる。この日は写真はおろか、BRUCEの姿さえ見れずにホテルを後にした。
数日後、東京での公演のあと、NILS LOFGRENから連絡があった。「楽器店を見て歩いたら、今使っているアメリカで入手したものとは違うスペックのギターがあったが、あれは日本にしかないモデルなのか?」というのである。確かにその機種は日本でしか販売していないもので、今度はそれを京都での公演の時に会場へ持ってゆく事となった。この時、NILSの計らいで京都公演をついでに見させてもらった。こういう場合、いつもかなりいい席に案内される。とはいえ場所は確かにステージに近いいい場所だったが、みんな始めからオールスタンディング状態である。この日こそリハーサル後にでもにBRUCEには会えないものかとマネージャーに何度か頼んだのだが、「彼女が病気にかかって、彼はリハーサルを止めてホテルへ戻った。今日、彼は非常にナーバスだ。」と言っていた。またもや、この日も彼とは会えなかった。
結局、BRUCE本人とはもう会えないと諦め気分でいたら、大阪公演へも来てくれないかという事になった。何の用事だったか、はっきりとは思い出せない。しかし1度の来日ツアーで3回も出向くのはこちらにも相当の理由がないと経費もきつい。誰かメンバーのギターが故障したとか、それなりの“行くべき”理由があったのだろう。
今度は大阪城ホールだった。そこで遂に楽屋裏の廊下で初めてBRUCEとすれ違った。その時になってようやく気付いたのだが、今まで僕らの窓口になってくれていてマネージャーだと思い込んでBRUCEに会わせてもらう事を頼んでいた相手は、どうやら一行の機材担当の責任者程度の人物だったようなのだ。
BRUCEが横を通っても最敬礼状態で、東京以来3度も尋ねてきた僕を紹介すらできない。考えてみれば一行は演奏メンバーも含めて30~40名の団体で、それぞれ役割が完全に分業化されており、楽器の関係で訪問した僕らには楽器の範囲だけを統括する担当が相手するのは当然だ。こっちが勝手に、相手を勘違いして何でもかんでもその人を頼りにしてしまっただけだ。
そんな状況ながらも、何とか冒頭の記念写真にまで漕ぎ着けたのは、この日の通訳をかってでてくれた、当時、ギター教室の生徒だったI君(写真右)の語学力とBRUCEへの熱意の賜物である。彼はこの頃、医学部の学生で、遠い所を自費で大阪まで駆けつけてくれた。しかも、BRUCEを非常によく理解していて、これまで連れて行った会社関連の、ただ英語をしゃべるだけの通訳より、よっぽど気転が利いた。なにしろ会話の中で彼の歌の歌詞まで引用するのだから。
この写真は大阪城ホールでのステージの合間の休憩時間に、約束どおり部屋に戻って来てくれたBRUCEとの記念ショット。東京、京都、大阪、のべ3日間を費やして、やっと獲得した3分程の面会であった。今考えても、よくあんな異様な熱気のコンサートの途中の休憩時間に我々のようなゲストに会う時間を取ってくれたものだと思う。