ワールドカップ共催国、韓国のギター業界(前編)
1988年ソウルオリンピック(韓国では“パルパルオリンピック”と呼ばれていた)が終わった頃から、僕は韓国へ行くことが多くなった。多い年で6~7回くらい。少なくとも年に2~3回。結局、僕が楽器業界を去る1992年まで毎年コンスタントに通った。
その頃の韓国のギター工場は適度な品質と、世界の低価格帯市場をほとんど独占する生産量を誇っていた。この量産ギター生産国としての韓国に対し、世界のギター業界はどの工場に生産を引き受けてもらえるかを競い合っていた。
写真の後ろの建物をよく見て欲しい。なんだか建物自体も真っ直ぐ立っているのか怪しい感じだが、管楽器等と並んで、アコースティックギターもかすかに確認できるだろう。このビルの中にはギターショップ(鍵盤楽器の店も多少あるが)が、200軒くらい入っている。そんなビルの存在は世界中見渡しても想像できないだろう。この中では各店(1軒2~3坪単位)1~2人ずつ暇そうなアンちゃんがいて、隣同士の従業員たちが固まって(昼間から)トランプゲームなんかをして退屈しのぎをしている。
ギターはすべて床にスタンドで立てられ、所狭しとギュウギュウに展示されている。ほとんどのギターはヘッドにアルミ製のプレートが張ってあったりする。これは日本でも昔はよくやったのだが、どこか海外(たいていはアメリカ)からOEM(相手先指定ブランド)での注文で生産したギターが何らかの指摘でB級品になり引き取ってもらえないので、仕方なしにヘッドに別の適当なブランドネームを付けて安く自国内で売りさばくのである。
ここにはそんなギターがあふれている。つまりそれだけ韓国は世界各国からの注文を受け、量産ギターを数多く造ると同時に、B級品もやむにやまれず生み出していたのだ。日本でも2年に一度東京で楽器フェアというイベントが開かれるが、そんな機会でない限り、一度にこれだけの本数のギターにはお目にかかれない。ところが韓国のここでは、毎日が楽器フェア状態なのである。
僕が何をしに韓国へ行っていたかというと、やはりギターの検品が主である。時には新製品開発の相談に行くこともあったが、ほとんどは検品を兼ねての出張だ。ソウル市内のミョンドン、イテウォンは今となっては懐かしい街である。当時、低価格の量産ギターは台湾ではなく韓国の方が国全体で工場の数が多く、圧倒的に品質も良かった。僕はかれこれ韓国の中だけでも7~8社の工場を回った経験があるが、いずれも何らかの形で日本との取引があり、品質もそこそこ安定していた。
当時の品質で、日本国内ではだいたい2万円から4万円位の定価が付けられる程度のレベルであった。僕はアコースティックにしか興味は無いが、どの工場でも、もちろんエレキギターの生産を手がけていたし、その方面での日本との取引の方が多かった。
特に僕がよく通った工場S楽器のK社長は幼少の頃は日本で育った方だったので、日本語堪能でしかも京都で育ったと言うことから、関西弁なのである。当時の韓国は、国家事業であるオリンピックを無事に終わらせ、もう先進国の仲間入りを果たし、もうすぐ日本にも追いつくだろうと国全体が有頂天になっていて、それを期待してもおかしくない高度経済成長下にあった。
しかし、このK社長は日本人のこともよく知っているし、韓国人の事も当然知り尽くしている。「韓国は日本には絶対追いつけない」というのである。しかも当時から「調子に乗っていると、今に強力なしっぺ返しを食う」とまで言って、韓国の将来を予言していた。その根拠と言うのは些細なことなのだ・・・。
例えば、K社長は僕に「工場の手洗い場の蛇口を見てください」という。彼ら工場の人間は栓がきっちり閉まっていなくて、ポタポタと水が垂れるのを平気で見過ごすらしい。その他にもそういった日常の些細な点がこのK社長にはたくさん目に付くのだ。K社長によると、日本人にはそういったことは絶対無いという。これが国民の力の差だと。彼らは自分の会社を大切にしようという意識がないと言うのだ。
K社長の工場は板門店に続く一本道沿いにある。工場へ行く途中では兵隊が車の中を覗き込んでくる簡単な関所のような所を何箇所か通る。その関所は巨大なコンクリートブロックのゲートになっていて、もし北が戦車で板門店を通過してきたら、即座にこのゲートの足下駄を破壊して巨大なコンクリートブロックが道を塞ぐように作られている。工場から板門店まで、あと30キロ位らしい。
S楽器は600名もの従業員がいる巨大ギター工場である。正面玄関には従業員の送迎バスが何台もとまっている。(きっと日本だったら自動車工場か、電機メーカーの工場を想像した方が近いイメージの規模だ)品質も当時韓国で1~2のレベルのギターを作っていた。
なにしろアメリカの某有名ブランドの、あるシリーズはこの工場内で完全に別棟のラインを建てて造られていたのだ。これはたいした認められようである。このギターは日本へ入ったら、前述の2~4万円どころではなく20万円近くはする代物だ。また、この工場で造るエレキギターも、日本の当時トップブランドの、ある一定の価格帯を任されてもいた。
高校生になる頃、日本から引き上げて来て、そんな工場を一から創り上げたK社長はすばらしい先見性をもった経営者であると同時に、機械を造るのが大好きな職人でもある。
ギターを造るためのいろんな工程をもっと楽に作業できるよう、オリジナルの機械を考え出したりするのが大好きなのだ。工場の敷地の一角にはギターではなく、機械を造るための建物が設けてある。K社長は社長室にいない時はたいていこの機械の製作場で油まみれになっている。
そんなある日、僕が訪ねていったら、カスタネットを自動的に造る機械を考案しているという。木をくり抜き、自動で磨き上げるのだ。これが動き出したら、月産20万個だかのカスタネットができると言う・・・。
その後の何回目かの訪韓時にこの機械の出来具合を尋ねたら、K社長が寂しそうに言うのである。「この機械の1ヶ月の生産量は、韓国国内のカスタネットの1年間の消費量を超えていた。」このことが機会が出来上がった後で判ったらしい。
この機械が動き出したら、工場がカスタネットで溢れかえることになる。なんとも面白おかしい愛すべき職人なのだ。とはいえ経営者としての暮らしぶりは相当なもので、一度自宅をお邪魔したが、そこはソウル市内でも有数の高級住宅街で、家の床は総大理石、同じ町内には、当時の盧泰愚大統領も住んでいた。
韓国のその後は、ちょっと経済に明るい人ならご承知のとおり、オリンピック後10年を迎えようとしていた1997年に発生したアジアの通貨・金融危機に巻き込まれ、朝鮮戦争以来といわれる経済危機に見舞われ、財閥や銀行が次々に倒れ、IMF(国際通貨基金)に助けを求め、アジアでタイ、インドネシアに次いで3番目のIMF監督下の国家となってしまった。この屈辱的な事態の中、K社長の工場も倒産してしまったと、業界を離れた僕にも風の便りに情報が入った・・・。